- 組織的な事故としても問題を捉えるべき
山口県阿武町で2022年4月に発生した、困窮世帯への補助金として463世帯に10万円ずつ振り込まれるところ、誤って1世帯に4630万円が振り込まれてしまった事件。お金が振り込まれた男性は、この金を何とかかすめ取ろうとしましたが、あえなく逮捕。町にはおおよその金が戻ってきました(2022年5月26日現在)。
この事件、もちろんかすめ取ろうとした男性の行為が犯罪であったわけなのですが、元を正せば、自治体・金融機関のオペレーションのミスから誤送金が起こってしまったことも、まぎれもない事実。
自治体は被害者面ですが、本当はこうした問題は、自治体の組織力でこそ回避すべきことです。住民を、被害者にも加害者にもしないためにこそ、今回の失敗を組織事故として分析し、明日への糧にする必要があります。
経営学には、組織事故という研究分野があり、そこではいかにして事故を起こさない「高信頼性組織」を創っていくかが議論されています。本稿では、この組織事故という観点から分析をしていきたいと思います。
組織事故(誤送金)発生までのあらまし
まずは、今回の事故が発生するまでの経緯を確認しておきましょう。
概略は上の表のとおりです。
①新しく経理担当となった阿武町の担当者(若手)が、振込先情報をフロッピーで銀行に送付。銀行には、どの口座に振り込むかという情報がここで伝えられます。
②次に、振り込みの依頼書を同経理担当者が作成。この依頼書にミスがあり、1名に振り込むという内容になってしまっていました。
③振込依頼書の内容を上司が確認、町長印で承認。
④山口銀行の担当者が振込実行。その後、この振込はミスではないのかと報告。
⑤町は即日、振り込んだ先の男性に事情を説明。お詫びをし、返金を依頼。一時は男性は返金に応じるも、その後撤回、お金は別の場所に移され、男性も姿を消す。
ミスに気づき、修正できる可能性はいくつもあった。
皆さんもすでにお気づきだと思います。この事故、防ぐ可能性はいくつもあったのです。
- 担当者(若手)の手元で失敗に気づけなかった
- 承認印を押した上司が失敗に気づけなかった
- 銀行担当者が、失敗に気づけなかった
- 男性が返還を拒否したタイミングで、口座に対して何らかのアクションを行うこともできた
これらの、何重にも敷かれていたはずの防衛網を通り抜けてしまったことこそ、ここで問題化しなければいけません。
組織事故の考え方
①人を「性悪説」でみる:人は誘惑に弱く、失敗もしてしまうもの
失敗が許されないようなオペレーションを行うときには、経営学/組織事故研究で、どのように考えるか。ここではその鍵を、3つに分けて説明していきます。
第1のポイントは、人を「失敗してしまう生き物」とみることです。完璧にやり遂げることは難しい。どれだけの聖人君子でも、ときには魔がさすことがある。だからこそ、人の能力や心に委ねたりせず、組織で、仕組みとして防ぐのです。
今回の件も、誤った依頼書をつくってしまった若手担当者を責めるのではなく、組織としての体制不備を問題とすべきです。
②複層的防衛網を敷く
いかなる手段によっても、事故の確率は絶対にゼロにはできない。だからこそ、複層的防衛網を敷いて、事故確率を極限まで抑える。もちろん、時間はかかります。多くの人の承認が必要になるため、スピードが落ちてしまうのは事実です。しかし、それ以上にミスをこそ起こさないことが重要である場合には、何重にも防衛網を敷くべきなのです。
たとえば、1つの防衛網では1%の確率でミスが出てしまうとしても、それが2層になれば失敗確率は0.01%になり、3層になれば0.0001%にまでミスを減らせます。
安全が最優先の製造現場などでは、たいていこうした複層的防衛網が敷かれており、労災の発生を極限まで小さくしています。
そうした現場をずっと見てきた経営学者の感覚からすると、幾層にも張り巡らされた防衛網をするりと抜け出てしまった今回のケース、町のオペレーション能力にかなりの疑問符がつきます。
③仕組みは心で機能させる
今回の事故は、インターネット界隈の言葉を使えば「現場猫案件」と呼ばれるものです。安全に対する仕組みが形骸化、意識が欠如しており、事故待ったなしの状態です。
実はこの現場猫案件が発生してしまうのは、複層的防衛網を敷いたがゆえである場合があります。煩雑なオペレーションで、幾重にもチェックがあるがゆえに、現場のひとりひとりが「まあ大丈夫だろう」と気が抜けてしまうのです。
ここが今回の鍵です。複層的防衛網を機能させるための鍵は、一人一人を目覚めた状態(aware)にすることにあります。組織の皆が、自分の担当するプロセスがどのような意味があるのか、チェックをちゃんと行うことがいかに大切なのか、気づいている状態としておくことこそが求められます。仕組みが機能するのは、最終的には、心に戻ってくるのです。
かような意味でこそ、組織の皆がどういう意識で働いているかという「組織文化」をこそ、育てていくことが求められます。ここでもやはり、一人一人の心のもちように帰するのではなく、その心の持ちように対して、組織として働きかけていくという、「誰かのせいにせずに組織として防ぐ」の精神が大切です。
加害者を生まないためにこそ仕組みがある。
突然に自分の口座に4630万円が振り込まれたら、皆さんだったらどうでしょうか。私は正直、誘惑に揺れます。仮想通貨でちょっと増やしてから返せばよいか、とか笑。そんなことは怖くて絶対に出来ないという方も数多くいらっしゃるでしょうが、自分の理性に自信が持てない方もまた、いらっしゃるはずです。
そして、繰り返しますが、どんな聖人君子でも、魔がさすことはあるのです。
人々を「加害者にもしない」ためにも、オペレーションは盤石であるべきです。弱き人を守るための、組織的な仕組みと心(文化)を整えていくべきだという組織事故研究の要点、どうか覚えておいていただけたらと思います。
(APS学長・中川功一)
著者・監修者
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1982年生。経営学者/やさしいビジネススクール学長/YouTuber/経済学博士/関東学院大学 特任教授/法政大学イノベーション・マネジメント研究センター 客員研究員
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専門は、経営戦略論・イノベーション・マネジメント、国際経営。
「アカデミーの力を社会に」をライフワークに据え、日本のビジネス力の底上げと、学術知による社会課題の解決を目指す。
「やさしいビジネススクール」を中心に、YouTube・研修・講演・コンサル・著作等で経営知識の普及に尽力中。
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